アニメが100倍楽しくなるブログ!

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新作アニメを中心に紹介するブログです。本格的に書いているので長文注意。HOMEからアクセスすると最新記事が表示されます。

『聲の形』-他者との繋がりのあり方に気づかせてくれる名作

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※中の人が『聲の形』にあまりにも感動して、この記事は映画『聲の形』に関する中の人の超個人的な感想文になってしまった(公開するかも迷った)ので、普段のようなレビュー記事は別記事として書く予定です。

 

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「もうこんな時間や」

スタバでツイッターを眺めていた僕は急いで荷物を片付け、新宿の人混みをかき分けながら、ピカデリーへと向かう。今回の上映が関東では最終の上演だ。きっといつもより観客が多いことだろう・・・。

 

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上映は深夜0時過ぎに終わった。劇場を出た後、僕はすぐ山手線内回りのホームに向かった。行先表示がいつもの「池袋・上野方面」ではなく「品川」になっている。終電に間に合うように駆け込んだ電車の中で息を整えながら周りを見渡すと、すでに0時を過ぎたというのに車内は人でごった返していた。東京に住んでから数年経つが、こういう大都会の光景にはいまだに慣れない。まだ涙ぐんでいる目をこすりながら、僕は自分の考えを整理し始めた。

 

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<面白くなければ映画じゃない>

語弊がある言い方だが、この映画は聴覚障害や学校でのいじめ問題を「ネタ」にしている。製作陣は、ストーリーに聴覚障害やいじめを組み込むことで、登場人物たちに彼らの感情を激しく動かさせ、ストーリーを紡がせている。観客に感動してもらうという目的のためにだ。だが、自分はそのことに非難の気持ちや嫌悪感は起きない。僕個人の考えとして、そもそも映画やアニメなどの映像作品は、他人の行動を観客がただ「傍観」し、観客が何らかの楽しみ(映画を見るインセンティブや、映画を見た結果感じたことなど)を得るという、ある種のエンターテインメント性を持っているべきだからだ。

例えば、シリア難民の悲劇を描いたドキュメンタリー映画があるとする。観客が感じるのが、同情なのか、憐みなのか、自分じゃなくて良かったという安心感なのか、紛争に参加している様々な主体への怒りなのか、難民のための何らかの行動を実際に起こす決意なのか、懸命に生きようとする人々への感動なのかは分からないが、いずれにしても、観客が映画を観ることで得られた何らかの心や頭の動きを引き起こさせる装置として、難民たちの姿は利用されている。

別にドキュメンタリー映画に限らず、あらゆる映像作品がそうだ。登場人物たちが怪我をして痛い目にあっても、忘れられない感情でもがき苦しんでも、はたから見ている観客には関係ない。その意味で観客は登場人物に対して残酷である*1。観客たちは映像作品を通して、他人の背負っている性(さが)やハードルや問題を眺めることで、それらを利用して自分の心を動かしたり考えたりする。だから、この映画を観てその構造に気づく人たちの中には、この映画のテーマ設定に対して嫌な気持ちになる人もいるかもしれないけど、自分はそうは思わない。

さらにいうと、テーマの軽重は本質的にどうでもいいと思っている。「自分の心の成長や道徳心の向上のために、聴覚障害やいじめがテーマの映画を見よう」みたいな理由でこの映画を観ようとしたのではなく、純粋にアニメオタクとして可愛い女の子が出てくるアニメがいいなと思ったから観たのだ。ツイッターのTLでオタクたちが感動したとかいっていたから、この映画に出会うことが出来た。そして、観た後でさえ、扱っているテーマが重いこの映画を、正真正銘のエンターテインメント性まるだしの他の萌えアニメと同じ列に置いて評価しようとしている。映画の扱っているテーマの軽重ではなく、観た後に満足したか満足していないかで評価したいからだ。

あらゆる要素は作品テーマの軽重によらず、観客を楽しませるためにあり、評価は作品テーマの軽重ではなく、純粋に観て良かったかどうかに依存するべきである。「面白くなければ映画じゃない」という言葉があるが、この言葉を自分はこのように解釈している。

 

<京アニらしい素晴らしい出来>

この映画で評価したい点はこれだけではない。物語が主に将也の視点で進むため、硝子がどんな気持ちなのか、何を考えているのかを、将也だけではなく観客も思い悩むことができる。またストーリー展開についても、この先の展開に観客が興味を引くような仕掛けを施したストーリーテリング(時系列を入れ替えたり、誰からの視点かを変えたりなど)をする一方で、観客がストーリーをきちんと理解できるように無理のない脚本になっていた。正直、粗を探しても見つからないほど完璧なストーリー展開と脚本だったと僕は思う。演出やBGMも物語世界に観客を引き込むのに十二分に役割を果たしていて、劇場で観て本当に良かったと思える作品である。また、小学校時代から現在に至るまで一貫して、登場人物たちの行動や態度にリアリティを感じることが出来た。作画や細かい演出の素晴らしさに関してはいうまでもない。・・・。

いや。違う。僕が本当に書きたいことはそういうことじゃない。いや、もちろん、上に書いた一連の文章も感想の一部ではある。でもどうして僕は感想記事を書くときに、変にこう大人ぶって分析的に客観的になってしまうのだろう。映画のテーマだとか脚本だとか作画だとか演出だとか音楽の入れ方だとか、そういう外枠を指摘したいんじゃない(勿論、そういう外枠を意識して観察することが楽しいときもあるのだが)。それらは作品が僕に何かを与えるための手段や、伝えたいことを入れる容器に過ぎない。僕が書きたいのは、作品を観ているときに自分が素直に何を考えたのか、どんな感情になったのか、という「生々しい」感想なのに。でも、生の感想の多くはその刹那で忘れてしまうし、今残っている生の感想もうまく文章化できないのがもどかしい。それでも何とか書き留めてみる。

 

<妙にリアルな心情表現>

僕がこの作品を観て受けた最大のショックは、将也から何度も酷いいじめを受けても、彼を責めることさえしない硝子のまぶしい笑顔だった。硝子の姿は、京アニの代名詞ともいえる、かわいい女の子描写を通じて描かれている。公式HPでは彼女の笑顔は「愛想笑い」だと書かかれているが、実際は明らかに愛想笑いの枠を超えている。彼女の笑顔は、他の萌え系のアニメに出てくるような、かわいい女の子が仲のいい友達と心の底から楽しく話すときに見せる可憐な笑顔と限りなく似ていた。だからひどい違和感を感じた。彼女は酷い仕打ちを受けて苦しんでいるはずなのに、将也を憎む様子を全く見せず、天使のように笑みを浮かべるという彼女の行動を、僕は全く理解できなかった。それどころか、観客である自分ですら、行動が全く理解出来ない硝子のことを「拒絶」していたのかもしれない。将也を始めとする、彼女以外のクラスメイトたちのように。

だが、そんな僕の疑問は思わぬ形で解けることになる。将也にいじめられた硝子が、将也に優しく微笑えみ、落書きされた将也の机を拭いてあげたのと同じように、結弦に盗撮写真をネットにアップされた将也が、結弦に怒りを覚えることもなく、雨の降る中で傘に入れてあげたときだ。将也の行動は硝子の行動の焼き写しであり、どうして将也がこんなに優しいのかについて作中では明確に説明されていない。しかし、将也がこういう行動をとった理由がなぜか理解できてしまった。硝子の行動の方は理解できなかったのに。

将也の行動は、「自分に悪意を意図的に向けた人間に対しても優しく接するべきだ」といった高潔な精神に由来するものではない。他人とのコミュニケーションを断っている彼にとって、他人からのコンタクトは嫌がらせだろうがなんだろうが、なぜか嬉しく感じられたと考えるほうがまだ妥当である。あるいは、小学校時代に自分が受けた酷いいじめや、現在の環境でも周りの人間は自分を拒絶しているという常に頭にまとわりついている妄想のせいで、将也の心は疲弊しきっており、何が自分にとって辛いことなのかという正常な判断ができないため、結弦のいたずらは軽微に思えたからかもしれない。そして、硝子の行動もおおよそ同じような理由からかもしれないと思い至った。周囲との意思疎通がうまくいかない彼女にとって、周囲と何らかのコミュニケーションを取ること自体が、ありがたく感じられたのだろう。それが悪意に満ちたものであったとしても。さらに、ストーリーは進むと、当時から自分のせいで周りを不幸にしてしまっており、自分は死んだ方がいいとも考えていたことが分かる。

このように、いじめられる側の人間の心情が生々しく表現されており、彼らたちの心情にショックを受けただけではなく、心情表現が間接的にも関わらずその意図をくみ取ることができたことにもショックを覚えてしまった(自分自身の中にも類似の実体験があるのかもしれないと示唆しているように感じられたからだ)。

ところで、作中では過去の将也の行動や彼に降りかかる出来事が、少し形を変えて再度出てくることが多い。さっき挙げた、いじめてくる将也に微笑みかける硝子と、ネットでなりすましをしてきた結弦に優しい将也という構図もその一つである。また、クラスメイトからいじめられる硝子と、彼女の転校後に仲間から裏切られていじめられる将也(いじめの手段まで同じ)という構図もそうである。硝子をいじめたことで将也がみきから非難されるというくだりは2回も観ることになった。こういった展開は、さっき挙げたように、観客たちに登場人物たちをさらに深く理解させるはたらきをする。こういった手法を意識して観たのは初めてだったので自分には新鮮だった。

 

<どこに感動したんだろう?>

さて、僕はこの映画に大きな感動を覚えた。だが、ここで改めて本作のあらすじを考えてみてほしい。この映画を要約するとこうだ。「聴覚障害をもつ女子をいじめていた男子が、女子の方が優しいのにつけ込んで、都合よく仲良くなる話」。しかし、実際の人間模様はそう簡単に割り切れるものではない。そのことはこの作品を観た全ての人が恐らく共通して感じただろう。ここでは次の2点を指摘したい。

1点目はいじめについてである。本作の大きなテーマとして、いじめとそれによって生じたわだかまりの解消があげられる。普通なら、「いじめた側が過去のいじめを反省し悔いることで、何も悪くは無いいじめられた側が、当時と変わらない優しい心でもって彼らを受け入れて、めでたし」というストーリーになるだろう。だが、変わるべきなのは、いじめる側だけではなく、いじめられる側でもあったと本作では説いている。硝子は摩擦を恐れずにもっと自分の気持ちを人に伝えるべきだし、将也は人の顔をきちんと見るべきだとなっている。そこで障害があることが特別扱いされることはない。さらに、突然現れた西宮の扱いに困っていたという植野の意見や、教師も含めクラス全体で将也1人をいじめの張本人に仕立て上げるという陰湿な体制など、そこには単純な善悪論では片付けられない複雑ないじめの背景が描かれている。別に、いじめはいじめられる側にも問題があるからだとかいう曲がった論理で、いじめはいじめる側ではなくいじめられる側が悪い、という結論が言いたいのではない。だが、いじめを含め様々な人間関係の中で、誰が悪いかという議論を超え、各々がどう変わるべきなのかがテーマだと気づいたとき、僕は驚いたとともに、感動を覚えた。

2点目は将也と硝子の関係性についてである。転校した後に初めて二人が出会ったとき、硝子は優しく微笑み、将也にとって都合のいいように話が展開しているように見えたため、観ているだけで居心地が悪く感じられた。しかし、話が進むにつれ、二人の関係性はいじめの加害者・被害者という単純な構図ではないことを知らされた。自分の殻に閉じこもっていた硝子が、将也に生きる理由を与える一方で、硝子をいじめて生きる理由を奪ったともいえる将也が、硝子が生きる支えになる。二人が完全に過去を乗り越えるのはまだ先なのかもしれないが、この先もきっと二人は互いを支えあって生きていくことになるんだろう*2。自分の嫌いな部分も受け入れ、二人が支えあいながら頑張って生きようとする姿に、僕は心を動かされたのだ。今回の一連の出来事で、それぞれの人生がいい方向に向かうことを確信したし、これからの二人の幸せを祈っている。

 

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ここで僕はペンを置いた(って書いたけど、実際はWordで書いているからペンは持っていない)。この駄文を書くのに4時間もかかった。バイトの時給に換算すると、1時間900円だとして、果たしてこの文章に3600円以上の価値があるのかは、かなり疑問ではある(たぶんない)。深夜テンションだと普段よりもさらに酷い文章になるな、と悲しく笑いながら、窓の外を見た。夜明けはすぐのようだ。

・・・と長々と書いてしまいましたが、まとめると、

結論:「植野もかわいいけど、硝子が本当にかわいらしくて素晴らしい映画です。まだの人は絶対に観てください。」

*1:例えば、百合好きなら、同性愛が一般的に受け入れられていないような社会という設定の中で、苦しみながらも愛を貫こうとする2人の百合に感動するだろう。2人が叶わない恋に苦しんでいる様子を見て2人の百合の尊さに感動する。それは残酷な心の働きだと言えないだろうか。

*2:百合だったらここで「二人の関係性はなんて尊いんだろう(歓喜の涙)。早く結婚してほしい。」っていう言葉で締めたんですけど、百合じゃない場合は何て言えばいいんですかね?(笑)(語彙力のない百合厨)